へっぽこ会長の独り言。

へっぽこ会長の失敗話。


☆バックナンバー1,・・・『Tさんの事』
☆バックナンバー2,・・・『H君の事』
☆バックナンバー3,・・・『Hさんの事』




Yさんの事



私がまだ後継予定者だった頃、

長年信仰している信者のSさんから電話があり、

「修養科に入学したい人がいる、いや、入れたい人がいるから連れて行く。」と言う。

その年まだ一人の初席者もお与え頂いていなかったので、修養科生とは素晴らしいと、

何の苦労も無い私は、単純に喜んでいた。

電話から程なく、SさんはYさんご夫婦を連れて教会に参拝に来られた。

その頃うちの会長は、もう高齢で、話を聞いてもさとしたり、しっかりした受け答えが出来ないような状態だったので、

Sさんの希望もあって、若輩者の私が話を聞くことになった。

SさんやYさんご夫婦と一緒に参拝した後、早速お話を聞かせて頂いた。

Yさんは、初対面の私に話しづらそうに話すのだが、

Sさんは、Yさんから既に色々話しを聞いているので、Yさんの言葉をさえぎって先に先に説明をする。

とにかく、ちょっと興味深い話だった。それは・・・。

Yさんのご主人は発明家で、以前はある企業に所属して結構いろんな発明をして、

特許もいくつかとって会社には貢献していたのだが、

会社が手柄を全て持っていってしまい、自分には、ほんの少しの賞与があるだけなので、数年前に独立をしたという。

そして、ある程度仕事もうまく行って、奥さんとともに旅行に行ったり、

奥さんに毛皮をプレゼントしたりして、贅沢に過ごしていたのだが、

わがままな性格が災いして、不摂生な生活により、糖尿病になり、その後、脳内出血で倒れて、

命は助かったが、それ以来、何の仕事も出来なくなってしまった。

それからはYさんの奥さんがご苦労なさって、パートや、ヘルパーをしたり、

知り合いの飲食店で皿洗いなどをして二人の生活を支えていた。

そんな中、奥さんがご主人を連れて、老人娯楽施設に行ってくつろいでいた時に、Sさんと知り合い、

色々とお話を聞くうちに、修養科の話になったと言う。

何しろすぐに修養科に入学したいと言うので、

私は、とまどいながら、

「と、とにかく今から基本的な教理を勉強しましょう。」と言って、

私がその場で出来る限りの説明をさせていただいた。

すわりづとめだけでも覚えて欲しかった。

会長は、すべて私にまかせっきりだった。

結局、勢いで修養科に入ったようなものだった。

一ヶ月は順調だった。・・・かのように過ぎていったが、一ヶ月生の終わり頃、うちの電話が鳴った。

それは、おぢばの詰所からの電話で、Yさんの体調がわるく、

他の修養科生の方々に大変迷惑をかけているということだった。

付き添いをつけるか、やめて帰るか、どちらかを選択して欲しいと言う事なので、

付き添うつもりで様子を見におぢばの詰所に行った。

詰所に着いて、お世話をしてくださる先生にご挨拶をして、修養科生の生活する研修棟の部屋に行ってみると、Yさんは寝ていた。

Yさんの布団にはビニールシートが敷いてあり、失禁に備えてあった。

私の顔を見るなりYさんは、泣いた。

聞くと、最初のうちはがんばっていたのだが、だんだん疲れてきて、思うように動けなくなってしまい、

同期生の方々に励ましてもらっていたが、励ましが叱責に変わってきたと言う。

そして、皆さんと同じ部屋にいたのだが、生活のリズムがついていけないのと、

失禁のためひどく臭うので、個室に入れられていた。

毎日。Yさんのためにいろいろ言ってくれる言葉が、Yさんの耳には責められているとしか聞こえない状態になっていた。

私は一ヶ月間のYさんの心の叫びを、ただただうなづきながら聞いた。

そして、静かに「じゃぁ、今日から私も一緒にここに残って生活するよ。」と言った。

私は、同期生の方々にお詫びとお礼を言うために、大部屋の方に行った。

その部屋には、4人ほどの方がいて、私の顔を鋭い目で見た。

Yさんは、若い頃は柔道をやっていて身体が大きくて骨太で、非常に身体が重いのだった。

その重たいYさんを同期生がかわるがわる車椅子を押して下さっていたのだった。

私はすぐに、お詫びとお礼の言葉を申し上げたが、

その中の一人が、

「あんた若いけど会長さんか?あんな人を一人で修養科に放り込んだって修養なんてむりやで。かえって迷惑や!」と言った。

私は「会長が高齢なので、後継者の私が来ました。本当に申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました。」と言って

今までの経緯を教えて欲しいと言った。

すると、同期生に言わせると、彼のために色々助言をするが、Yさんは言う事を聞いてくれない。

むしろ、「してはいけないよ。」と言う事をする。

例えば、糖尿なので、甘いものは控えるように言っても、隠れて買い食いをするし、

決められた行事も無断で欠席して部屋で寝ているなど、同期生の励ましをことごとく無にしていたようだった。

何回も、お詫びの言葉を言うが、同期生の皆さんの態度は私にも厳しかった。

兎にも角にも残り二ヶ月を私も共に修養することになった。

私は、今後のこちらの動き方でわかってもらうしかないと思ったので、もうべったり彼に付き添った。

同じ部屋で寝ると呼吸が苦しくなるほどアンモニア臭がして、臭かった。

病気のせいか、薬のせいなのか、Yさんの下着を洗濯して干すと、なぜか赤く染まってしまう。

担任の先生の計らいで、教室にも入れていただいた。自分が修養科生だった時よりも緊張して授業を受けた。



毎日生活するうちに、案外直ぐに他の修養科生とも打ち解けてコミュニケーションも円滑にとれるようになった。

なにしろYさんにべったり付き添っているので、その様子を見て気の毒に思っているようでもあった。

ある日、物凄い雨が降ったとき、その雨の中をコンビニで買った合羽を着て、

私がYさんの車椅子を押しているのを、子連れで修養科に来ているご婦人が見て、

休み時間に私のところに来て、不思議そうな顔で、

「あなたは、Yさんの身内なの?」と聞くので、

「いや、身内じゃないけれど、縁があって親神様がうちの教会にお引き寄せ下さった方なので、お世話取りをさせて頂いています。」と言うと、

「私には考えられない。自分の家族も放っておいて、他人のために尽くすなんて・・・Yさんは幸せだね。」と言って立ち去った。

私は戸惑いながら彼女の背中を見送り、心の中で「私はあの婦人が思うほどYさんの事を真実込めて心配しているだろうか?」と呟いた。

私に真実はあるのか、その日から修養科を修了していただくという事よりも、

Yさんが自分でやる気を出してくれる事に精力を傾けた。

修養科の昼休みには一緒に神殿に参拝し、おつとめをし、おさづけを取り次がせて頂いた、

毎日そうしているうちに、だんだんYさんの体調が良くなり、「行き帰りの道を自分で歩きたい。」と言い出した。

じゃぁ、少しずつ歩こうか。と言う事で、次の日から他のみんなより早く詰所を出発して修養科に登校する事にした。

詰所から修養科の校舎までYさんの足ではたっぷり一時間以上かかるので、途中糖尿から来るのどの渇き、頻尿、だるさに襲われる。

疲れた時のために私はYさんが乗らなくても空の車椅子を押していた。

しかし、二ヶ月目の後半から修了まで、Yさんは車椅子に乗らず杖をついて歩き続けた。歩ける事が嬉しいようだった。

おてふりの授業も出来る範囲でがんばっていた。私が付き添うまでの一ヶ月とは見違えるようなYさんの姿に、同期生は喜んでいた。

Yさんのすねはむくんでいて押すと指の形に窪んだままになる。歩けるのだが正座が出来ない。

三ヶ月目のおさづけの理拝戴の時に正座ができない事が問題になったが、

お詫び書を書くと共に、連日練習して、なんとかおさづけの理も拝戴できるようになった。



おさづけの理を拝戴させていただいて、歩く事も出来るようになって、

無事に修了も出来た。

私も一緒に横浜に帰ることが出来て嬉しかった。

帰ってからのYさんは、月次祭にもみえたし、自分で散歩もしていて、意欲的に毎日を過ごしていた。

ところが、ある日奥さんが外出している時に一人で部屋の中でつまづいて転んだ拍子にサッシに頭をぶつけてしまい、

奥さんが帰るまで起き上がれないでいた。少し怪我もしていたのを見て、

奥さんは自分が看る自信が無くなり、Yさんを、以前のように入院させてしまった。

それからは、私達夫婦でお見舞いに行きながらおさづけを取り次がせていただく事が続いた。

毎月の月次祭の後には必ずお下がりの果物とお水を持って、おさづけを取り次がせていただいた。



そんなある日、家内が腹痛を訴え、

医者に行くと、子供を授かっていた。結婚して3年目の事だった。

Yさんも、その事を喜んでくれていた。

しかし、最初から腹痛を伴う異常があったので、いやな予感がしていたが、

いやな予感と言うのは当たるもので、外妊だった。

かかりつけのお医者さんが、そうはの手術をしたあと、

卵管に着床してしまっていた胎児を発見できずに、

家内を退院させたのだが、具合がどんどん悪くなって行った。

家内の母親が家内の状態を見て、家内を実家で静養させる為に連れて帰った。

丁度御本部の春の大祭の時だったので、家内は実家の父母と参拝したのだが、

その後具合が悪くなり、家内の実家のある地元の病院で緊急手術となった。

丁度子宮外妊娠の専門知識のある先生が担当で執刀して下さり、

胎児が着床してしまった卵管と破裂寸前の家内の卵巣は取り除かれ、

家内の命は救われたが、残念ながら、私達夫婦の最初の子供は出直してしまった。

驚いたのは、その手術の日にかかりつけの病院からハガキで検査結果が届き、

その内容が「異常ありません」というものだった事。

その後Yさんに子供の事を聞かれた時に、その事を話すと、

Yさんは、一緒に泣いてくれた。優しい人だった。



それから6年の間、入院しているYさんにお見舞いをする形で通わせて頂いていたが、

ある晩、電話の音で起こされ、寝ぼけ半分で電話に出ると、

Yさんの奥さんが「うちの人が逝っちゃった〜。」と泣きながら言うので、

「どこへ・・・。」と、言いかけて、理解した。

「今どこにいるんですか?」と聞くと、「今亡くなったばかりで、まだ病院にいる。」と言うので、

もう、12時はとうに過ぎていたが、すぐに家内と病院に駆けつけた。

Yさんは、ベッドの上で看護士さんに綺麗に身なりを整えてもらっていた。

今後の予定を聞くと、Yさんは、生活保護を受けているので、お葬式などは出来ないと伺った。

これからYさんの御遺体はどこに行くのかと聞くと、葬儀屋さんで一晩安置された後、火葬場が空き次第火葬だと聞いたので、

私は、何か無性に悔しい気持ちになって、

「では、明日の午前中私がお葬儀をさせて頂きますので、仲のいい人を集めてください。」と言った。

そして、葬儀屋に行ってみると、葬儀屋の道具庫みたいな土間に、

簡単なお線香のセットを前に置かれて、Yさんの棺が安置されていた。

私は、そのセットをどけて、自分が用意したお葬儀の準備をして、

Yさんの奥さんや、友人が参列するのを待って、親神様、教祖を遥拝して、祭詞を奉上して、ささやかなお葬儀を行った。

参列した人は5人ほどだったが、一人の大工さんは「俺もこういう風なお葬式がいいな〜。心がこもってていいや。」と、言ってくれた。

その大工さんは後日、うちの教会の部屋のリフォームをしてくれた。

その午後、斎場で火葬祭もして、埋葬にも立ち会い、墓前祭もさせて頂いた。

Yさんは、Sさんのにをいがけで修養科に行ってよふぼくにもなれた。

SさんはYさんのなくなる一年前に亡くなった。

きっと親神様の懐で、SさんはYさんを迎えてくれたと思う。Yさんは、心の優しい、まじめな人だった。

最後の最後までお世話が出来てよかった。いまは、奥さんに毎月月次祭のお下がりを届け、

その奥さんは、仕事が無い時に教会に参拝に来てくださる。おぢばにも行きたいと言っている。

Yさんのおかげだと、感謝している。