
かしもの・かりもの
たいないゑやどしこむのも月日なり むまれだすのも月日せわどり 六 131
人体のこの精巧な構造、微妙な機能は、両親の工夫で造られたものでもなければ、銘々の力で動かせるものでもない。すべては、親神の妙なる思惑により、又、その守護による。
にんけんハみなみな神のかしものや なんとをもふてつこているやら 三 41
にんけんハみなみな神のかしものや 神のぢうよふこれをしらんか 三 126
この世に生まれさせて頂き、日々結構に生活しているのも、天地抱き合わせの、親神の温かい懐で、絶えず育まれているからである。即ち、銘々が、日々何の不自由も無く、身上を使わせて頂けるのも、親神が、温み・水気をはじめ、総てに亙って、篤い守護を下さればこそで、いかに己が力や知恵を頼んでいても、一旦、身上の障りとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が、己が住む世界となって、手足一つさえ自由かなわぬようにもなる。ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものであるという理が自ずと胸に治まる。
めへめへのみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん 三 137
銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召しに随って、使わせて頂くのが肝心である。この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて勝手にこれを使おうとするから、守護をうける理を曇らして、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。これを、
人間と言うは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。(明治22・6・1)
と教えられている。
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。(明治22・2・14)
自由自在は何処にあると思うな。めんめんの心、常々に誠あるのが自由自在という。(明治21・12・7)
即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の心遣い一つによって定まる。それを、心一つが我がの理と教えられる。
しかるに、人は、容易にこの理が治まらないままに、あさはかな人間心から、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、己一人の苦楽や利害にとらわれて、一列の和楽を望まれる親心に、もとる心を遣いがちである。親神は、かかる心遣いを埃(ほこり)にたとえて、戒められている。(八つの埃参照)